FC2ブログ

武田 信玄 の 『 新正口号 』

日本の絶句
04 /24 2017
絶句編テキスト

2017年4月24日 絶句編 30ページ  

   新正口号    武田 信玄
 
淑気 未だ 融せず 春 尚お 遅し
霜辛 雪苦 豈 詩を 言わんや 
此の 情 愧ずらくは 東風に 咲われんことを
吟断す 江南の 梅 一枝 
   
      しんせい こうごう   たけだ しんげん
     しゅくき いまだ ゆうせず はる なお おそし
     そうしん せっく あに しを いわんや
     この じょう はずらくは とうふうに わらわれんことを
     ぎんだんす こうなんの うめ いっし


テキストの通釈によると、
新年に入っても依然として冬の気配が濃く、
なごやかな動きは現れない。
まだまだ春は遠いといった感じである。
霜や雪に痛めつけられた名残の風景の中では、
とても詩を作る心境などにはなれない。
さりとて、こんな無風流な気持を、吹きそめる
春風に笑われるのも気恥ずかしいから、
まず、あの陸凱の故事にならって
江南一枝の梅の詩でも作ることにしよう。


先生のお話によると、
新正 とは、新年のこと。
口号 とは、文字に書かず、心に浮かぶままに吟詠すること。
淑気 とは、春のなごやかな気配。
霜辛雪苦 は、四字熟語で、霜や雪にひどく苦しめられること。
豈・・・否定の言葉 で、決して・・・しないの意、反語。
吟断 とは、吟ずる。断は強意の助字。ここでは作る意。
江南梅一枝 とは、呉の陸凱(りくがい)が江南から一枝の
  梅花に添えて、詩を長安の范曄(はんよう)に
  贈った故事 を用いている。
    梅を折りて 駅使(飛脚)に逢い
    寄与す 隴頭(隴山のほとり)の人
    江南 有る処なし
    聊か 贈る 一枝の春


武田 信玄(1521~1573) は、戦国時代の武将で
信玄は法名で、本名は武田晴信。
12代将軍である足利義晴の一字をもらった。
甲斐の守護大名を務めていた18代・武田信虎の嫡男。
1541年、晴信は重臣らと 父・信虎を駿河に追放し、
武田家の第19代目の家督を相続した。
1568年、上洛を果たした織田信長と足利義昭が対立。
義昭は、信玄やその他の大名に信長討伐の旨を発送。
1571年、信玄は信長の盟友である徳川家康を討つべく
遠江・三河侵攻を行うが、1573年、たびたび喀血し、
甲斐に引き返す途中で死去する。 享年53才。

室町時代に京都と鎌倉に五山が出来ると、
宋からの帰化僧や、中国へ留学してきた僧などによって
漢詩が復活されることになり、武田信玄や上杉謙信など
これを学ぶ戦国武将らによって作詩されたり、
吟詠されたりするようになった ・・・ とのことです。

            

武田信玄の漢詩
古寺看花 古寺に花を看る
旅館聴鵑 旅館に鵑を聴く
薔薇 其二 薔薇 其の二
薔薇 其一 薔薇 其の一
新正口號  新正口号

惜落花  落花を惜しむ
偶 作   偶 作
新 緑   新 緑

◆多摩川の源流近くに、おいらん淵 というのがあって
 以前、そこに立ち寄ってみたことがあります。
 武田信玄が黒川金山の秘密を守るために
 おいらん55名を淵の上に吊った宴台で舞わせ、
 その最中に蔓を切って55名を殺したとのことでした。

けれども、こちら によると、
武田勝頼の死後、黒川金山の秘密が漏れることを
危惧した金山奉行・依田の主導で、鉱山労働者の
相手をするため遊廓にいた55人の遊女と、金山に
従事した配下の武士を皆殺しにすることを決めた
・・・とのことで、武田信玄も、勝頼も、このことに
関わっていなかったと知り、少しほっとしました。

おいらん淵と黒川金山

また、こちら によると、
黒川金山は、武田信玄の時代に最盛期を迎え、
武田氏の滅亡後は、徳川家康が甲斐を確保。
幕府の天領となって、1583年には黒川金山衆には
武田氏時代の特権が認められ、黒川金山を含め
甲斐内で幕府直営鉱山での金産出量は、
佐渡金山の金産出量と匹敵するようになった
   ・・・とのことです。

武田信玄を支え続けた金山衆とは?
によると、金が、武田家の軍資金として利用されていた
だけでなく、金の採掘技術や土木の知識などが
城攻めなどにおいて有効な手段となっていたとのこと。




  【 日本の絶句 】
 釈 義堂 の 『花に対して旧を懐う 』







スポンサーサイト



コメント

 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?