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上杉 謙信 の 『九月十三夜陣中の作』

日本の絶句
05 /17 2017
絶句編テキスト

2017年5月17日 絶句編 31ページ  

   九月十三夜陣中の作    上杉 謙信
 
霜は 軍営に 満ちて 秋気 清し
数行の 過雁 月 三更 
越山 併せ 得たり 能州の 景
遮莫あらばあれ 家郷 遠征を 憶う 
   
      くがつじゅうさんやじんちゅうのさく   うえすぎ けんしん
     しもは ぐんえいに みちて しゅうき きよし
     すうこうの かがん つき さんこう
     えつざん あわせ えたり のうしゅうの けい
     さもあらばあれ かきょう えんせいを おもう


テキストの通釈によると、
霜は見渡す限り陣屋を真っ白に覆って、
秋の気は身にしみてすがすがしい。
空を仰げば鳴きながら幾列かの雁が通り過ぎ、
真夜中の月は白々と辺りを照らしている。
いま首尾よくこの七尾城を陥れ、越後・越中の山々と、
手に入れた能州のこの風景とを併せて
眺め得ることは、真に男子の本懐である。
ままよ、故郷にいる家族たちが、遠征のこの身の
ことを案じていたとしても、それは致し方ない。
今宵は心行くまでこの十三夜の月を賞でようではないか。


先生のお話によると、
上杉 謙信(1530~1578)は戦国時代の名将。
越後の守護代・長尾為景の二男として生まれ、
上杉家の養子となり、上杉輝虎と称し関東管領となった。
文武兼備として有名な武将で、出家後、謙信と名のった。
生涯独身であったため、養子を跡継ぎとした。

川中島の戦いでは、24~31才までの7年ほどの間に
5回、武田信玄と対峙したが、それから16年後、
本陣を上越の春日山に置いて、織田信長に
味方している七尾城を攻め、落とした。
この後、雪解けを待って、五万の兵を集めて
織田信長と戦うはずであったが、49才で急逝した
     ・・・ とのことです。

            

こちら に興味深い記述がありましたので、
     以下に転載させていただきます。

天正5(1577)年閏7月、能登へ進攻した上杉謙信は次々と城を落とし、七尾城を包囲します。力攻めを避けた謙信は調略により城内で反乱を起こさせ、9月15日に城を落とします。したがって、この詩は落城の2日前に作られたということになりますが、まるでもう城を落とした後のような内容になっており、この点から、この詩は謙信本人の作ったものではなく、後世の仮託であるとする説が根強くあります(この詩以外に謙信の漢詩が残っていないことも仮託説の根拠になっています)。
この詩が謙信本人の作かどうかは私にはわかりませんが、落城前にまるでもう城を落としたかのように詠むということ自体はそんなにおかしいことではないと思います。まずこの詩を作るタイミングとして9月13日の夜というのは動かせないわけです。「後の月」はこの日と決まっているわけですから。したがって落城を待つわけいはいかず、9月13日の状況で詩を作るしかありません。その時点の状況は、能登の大部分はすでに攻略したものの、その首府たる七尾城はまだ陥落していません。したがって厳密な表現にするなら、転句は「越山欲倂能州景(越山併せんと欲す能州の景)」とでもするべきなのでしょう(私ならそうしてしまいそうです)が、そうするとこの詩の持つ力強さが半減してしまいます。詩の完成度を高めるためには多少の脚色も必要になります。したがって、七尾城が陥落していない時点で「越山 併せ得たり 能州の景」と詠むことは決して怪しむべきことではないと私は考えます。




  【 日本の絶句 】
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