FC2ブログ

李 白 の 『 越中覧古 』

中国の絶句
05 /26 2017
続絶句編 250  
 2017年5月26日 続絶句編 134ページ

   越中覧古   李 白
 越王 勾践 呉を 破って 帰る 
 義士 家に 還って 尽く 錦衣す
 宮女 花の 如く 春殿に 満つ
 只今 惟 鷓鴣の 飛ぶ 有り

    えっちゅうらんこ
  り はく
えつおう こうせん ごを やぶって かえる
ぎし いえに かえって ことごとく きんいす
きゅうじょ はなの ごとく しゅんでんに みつ
ただいま ただ しゃこの とぶ あり


テキストの通釈によると、
かつて春秋時代、越王の勾践が長い年月に亘る
忍苦の末、ついに、呉を打ち破って凱旋して来た。
これに従って、忠節を尽くした勇士たちも家に帰って
恩賞として賜った錦の衣服で着飾っていた。
宮中の女性たちは、美しい花のように
艶やかに、宮殿に満ち溢れていた。
だが、今はただ、鷓鴣がわびしく
飛びまわっているだけである。


先生のお話によると、
越中は、越の都。会稽(かいけい)、現在の浙江省紹興県
覧古は、懐古の意味。
勾践は、句践とも書く。春秋時代の越の王(?~前465)の名。
    呉の王。夫差 (ふさ)に捕らえられて屈辱を味わったが、
    20年後、忠臣 范蠡(はんれい)とともに呉を滅ぼした。
鷓鴣は、きじ科の鳥。うずらに似ているが、うずらより
    少し大きい。褐色で、胸に白い斑点がある。
    啼き声が悲しげに聞える。

李白が46才、浙江省に滞在していた頃に作られた詩である。

春秋時代、 江蘇州が 、その南 浙江省が の国であった。
30年にもわたって続いた 呉越の争い は、
前473年、越王の勝利によって幕を閉じた。

呉王・闔閭は、越に攻め入って負った傷が元で
死を迎えることになったが、息子である 夫差
『必らず越の勾践に復讐するように』と遺言した。

呉王となった夫差は、父の言葉を忘れないように
薪の上に伏して(臥薪)兵力を強め、越の勾践を会稽山に
追いつめた。命乞いをしてきた勾践とその忠臣・范蠡 を
夫差は、忠臣・呉子胥の忠告を受け入れずに許した。

越王・勾践は、呉に赴き、召使いとして、
夫差に仕えることになり恥(会稽の恥)をさらした。
越に戻った勾践は、この時の恥を忘れないよう
肝を嘗めて(嘗胆)奮起し、鍛錬した。
呉王・夫差が北征して、呉が手薄になった機を
狙って、勾践が呉の都・蘇州を攻めて滅ぼし、
30年余続いた呉越の争いを終えることとなった。  

呉越の争いから、
臥薪嘗胆:目的をとげるために、長い間
       たいへんな苦労をすること。
会稽の恥:敗戦の恥。相手から受けた 
       忘れられない恥。
西施の顰(ひそ)みに倣う
 などの言葉が生まれ、今も使われている。

絶句編 122ページ 『蘇台覧古』 は、
李白が、呉の立場から作った漢詩である
     ・・・とのことです。

             

★鷓鴣って、庶民の鳥、古い鳥と書きますが、
  こちら に よると、
 中国南部などで、家禽として飼育もされている。
 足の力が強く走るのが得意だが、飛行は苦手。
 雑食性で、バッタ、アリ等の昆虫、植物の果実、
 種子、芽などを食べることが多い。
 主に食肉用として飼育されている。鶏などより
 高価で、スープの材料として用いる例が多い
         ・・・とのことです。




  【 中国の絶句 】
 李 白 の 『天門山を望む』 







スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

 詩吟もえ子

お稽古に参加して七年目です。
皆さまもご一緒にいかがですか?