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李白らとも親交のあった阿部仲麻呂の 『無題』

日本の絶句
09 /12 2014
続絶句編テキスト


2014年9月12日、 『絶句編』から 『続絶句編』 に なりました。
どちらも前半が日本の漢詩、後半が中国の漢詩になっていて、
作者の年代が古い順に載っています。
『続絶句編』 の初めは、阿部仲麻呂 の 『無題』 でした。

  義を 慕う 名 空しく 在り
  忠を 輸すも 孝 全たからず
  恩に 報ゆる 幾日も 無し
  国に帰るは 定めて 何れの年ぞ


テキストの通釈によると、
 人の踏み行なうべき道である 『義』 を求めて
 励んできたが、空しい名声だけがあるばかり。
 故国を離れ、唐土に来ているのは、君には忠を尽くすことになるが、
 親に孝行を尽くすことができなくなってしまっている。
 私も年を重ね、このさき親の恩に報いたくても
 その日が何日もなくなってしまった。
 はたして日本へ帰国できるのは何時であろうか?



  阿倍仲麻呂 は16才で遣唐使の留学生として唐に渡る。
  天皇の勅命を受けていたが、唐に着いた仲麻呂は、
  唐の大学に学び、科挙に合格し、唐朝の諸官を歴任した。
  その才能により玄宗に重用されることになる。

  753年、帰国を願って許されたが、日本へ向かった船は
  途中で暴風雨に遭って難破し、ベトナムに漂着。
  日本に帰れず、再び唐に戻ることを余儀なくされた。
  李白・王維らとも交流し、その詩は『全唐詩』などに収められている。

  仲麻呂が玄宗に重用されて、朝衡という唐名を名乗り
  唐で昇進を重ねていたことなどから、日本では天皇の勅命を
  捨てたという噂が流れ、逆臣であるとして所領が没収された。

  唐に渡って54年の後、770年に73才で唐の都長安で死去した。

以上は、先生のお話しとネットからの情報です。

仲麻呂が唐にいる間に日本にいる親や兄弟など
家族の所領が没収され、そのことが唐に渡ってくる
日本人から伝わっていたとすると余計に
自分が唐に留まり、地位や名誉を得ていたとしても
故国の親兄弟のことなどを思い、空しく思ったことでしょう。

『続日本紀』に、彼の家族が貧しく、葬儀を十分に行えなかったため、
日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っているとのこと。
私は日本の家族に対してかと思ったら、唐の家族に対してとのこと。
でも、唐での仲麻呂の家族のことは分っていないようです。
若くして唐に渡り、官職を歴任し、地位も名誉も得たのに
家族が葬式も出せないほど晩年の暮らしが貧しかったのか?
そういうことも謎のようです。

   天の原 ふりさけ見れば 春日なる
      三笠の山に いでし月かも


このブログのトップ に 載せた和歌ですが、
仲麻呂の作かどうかの疑問を持つ人もいるようです。
『絶句編』 と 『続絶句編』 を 通して、日本人としては
いちばん古い作者のようで、1200年以上も昔のこと・・・
この漢詩と和歌には、大きな浪漫を感じます。




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