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杜甫 の 『八陣の図』

中国の絶句
07 /14 2017
続絶句編 250  
 2017年7月14日 続絶句編 140ページ

  八陣の 図    杜 甫
 功は 蓋う 三分の 国  
 名は 成る 八陣の 図
 江 流るるも 石 転ぜず
 遺恨なり 呉を 呑むを 失す 

   はちじんの ず
  と ほ
 こうは おおう さんぶんの くに
 なは なる はちじんの ず
 こう ながるるも いし てんぜず
 いこんなり ごを のむを しっす


テキストの通釈によると、
諸葛孔明の武功は、魏・呉・蜀を圧倒するものであった。
彼の名は、八陣の図によって一層、高くなった。
長江の流れにも、この石はびくともしない。
惜しいかな、呉を攻めて滅ぼし併呑し得なかった。


先生のお話によると、
杜甫は、諸葛亮孔明を崇拝していて、
律詩 『蜀相』、『登楼』にも詠んでいる。

八 陣 図 : 諸葛亮が石を積んで作った陣形。
   八陣とは、天・地・風・雲・飛竜・翔鳥・虎翼・蛇盤の
   八物にかたどったもの。
 蓋  : 圧倒する。
三 分 国 : 魏・呉・蜀の三国。
失 呉 呑 : 呉を滅ぼして併呑できなかった。

諸葛孔明は、蜀軍を率いて、魏を攻めたが、
五丈原の戦いの途中で病死した。
死期を悟った孔明は、自分の死後、自分の影武者を
立てた上で蜀に撤退するよう指示して亡くなった。
魏軍を率いる司馬仲達は、孔明の死の情報を得て
いったんは蜀軍を追撃したが、孔明の影武者を見て、
これは計略であったと急ぎ引き返した。
このことから、死せる孔明、生ける仲達を走らす
という故事が生まれた。

     ◆  ◆  ◆
   
杜甫は、安禄山の乱で幽閉されていたが、そこから脱出し、
四川省の成都に行き、節度使 厳武の庇護を受け、
49~54才頃まで浣花草堂にて穏やかに過ごしたが、
厳武の死によって、蜀を下って、奉節に数年滞在した。
このあと、長江を下って、途中59才で亡くなった。

杜甫は、成都の浣花草堂で暮らしていた時、
同じく成都にある 諸葛孔明の廟を訪ねている。
『八陣の図』は、54才の時に作られた。
     ・・・とのことです。
      



  【 中国の絶句 】
 杜甫の 『江畔独歩花を尋ぬ』 







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