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菅 茶山 の 『生田に宿す』

日本の絶句
08 /10 2017
絶句編テキスト

2017年8月10日 絶句編 43ページ  

    生田に 宿す    菅 茶山 
 千歳 恩讐 両つながら 存せず 
 風雲 長えに 為に 忠魂を 弔う
 客窓 一夜 松籟を 聞く 
 月は 暗し 楠公 墓畔の 村
   
 いくたに しゅくす
   かん ちゃざん
せんざい おんしゅう ふたつながら そんせず
ふううん とこしなえに ために ちゅうこんを とむろう
かくそう いちや しょうらいを きく
つきは くらし なんこう ぼはんの むら


テキストの通釈によると、
長い年月を経た今日となっては、その昔、
敵味方に分かれて戦った南朝方も北朝方も
消えて跡形もなく、その墓所を訪ねる者とてない。
ただ風が吹き、雲が漂い、自然の風物だけは、
忠義のために戦死した楠公の御霊を
永遠に弔っているのである。
自分は旅の夜をここに過ごし、すさまじい松風の
音を耳にしながら、窓から彼方を見渡すと、
月もどんよりと曇り、楠公の墓のほとりには灯火ひとつ
見えず、湊川一帯の村は寂しいばかりであった。

   ・・・とのことです。

先生のお話によると、
菅 茶山(1748~1827)は江戸時代中~末期の漢詩人。
茶山は号で、本名は、晋帥(ときのり)。
備中(岡山県)、神辺町(現・広島県福山市)の出身。
宿場町の農家に生まれる。
京都で学んで、31才の時、神辺に私塾・
黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開き、
誰でもが学べ、貧富による差別のない社会を望んだ。
この詩は、茶山が48才の3月22日、舞子浜・
須磨を経て、生田に到った時に賦したものある。

福山藩の藩校は弘道館であったが、藩主に認められ
49才の時、私塾が福山藩の郷学となり、
廉塾(れんじゅく)と改称した。
茶山は、福山藩の儒官ともなって弘道館にも出講。
詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。

頼 山陽の父、頼 春水とは友人の間柄で、
廉塾の門人・頼山陽が父に勘当された時には仲をとりもった。

            

生 田 : 1336(延元元)年、楠木正成・新田義貞の連合軍
   (南朝方)が、足利尊氏の軍(北朝方)と戦った
   湊川のあった村。今は、神戸市中央区で、
   市の中心街になっている。
千 歳 : 長い年月。湊川の戦いから
   茶山の時代までは500年足らずであり、
   実数ではない。
恩 讐 : 恩を被ったものと怨むべき敵と。敵と味方。
客 窓 : 旅館の窓。、
墓畔村 : 生田をいう。楠公が戦死したのは、
   今の生田・多門通りにある湊川神社の地で、
   社殿の後に残っている森がその跡であるとされる。
   今、鳥居が建っている右脇のところに、形ばかりの
   墓石があったのを、1693(元禄5)年に水戸藩主・
   徳川光圀が修復して碑石を建てた。
   碑面の『嗚呼忠臣楠子之墓』は光圀の筆である。

   この碑石は、山陽道沿いにあったが、わざわざ立ち
   寄る人もいず、それを嘆いて、この詩が作られた。
   現在は、湊川神社に祀られている
       ・・・とのことです。





    【 日本の絶句 】
   伊形霊雨の 『赤馬が関舟中の作』






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